翁長沖縄県知事逝去〜沖縄の未来のために、沖縄経済低迷はB券発行に逆上る

長崎への原爆投下8月9日の記念式典の前日夕方、かつてから健康不安が懸念されていた翁長沖縄県知事の 訃報が伝えられた。

 

まだ、県知事一期目ではあるし、「オール沖縄」の牽引力だった翁長さん。

私は沖縄県人ではないけれど、権力を恣意的にもてあそんでいる中央政権と比べると、いかに県民のことを考え、様々な圧力と身を削って対峙していたかが明白だった。

 

そんな経過から、尊敬と親しみの念を込めて「翁長さん」と呼びたい。

 

かつては、沖縄自民党県連の幹部だった翁長さんが沖縄の犠牲のうえに築かれた平和を思う気持ちを一転させたのは、07年。文部科学省の高校歴史教科書検定沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述が削除・修正されたことだった。

 

このところ、沖縄の経済人から

「翁長知事は、政治家ではなく運動家になってしまった」という意見が出て、オール沖縄の存続が危うくなっている状況だ。

 

沖縄の経済の低迷、失業率の高さから

「やはり、沖縄には中央政府の援助が

必要だ」という機運が盛り上がってきたためだ。

 

しかし、沖縄から経済の自立を奪ったのもGHQアメリカ占領軍)であることを森永卓郎氏は述べている。

日本の経済力のここ20年での低下をプラザ合意から解き明かしたなかで、

「かつて沖縄で同じことがおこなわれたのですよ」と述べている。

 

GHQは1946年にB円券を発行し、1948年には日本円の使用は禁止となった。

当初は1B円=日本本土の1円の価値だったが、それを1B円=3日本円にした。そのため、沖縄の製造業は国際競争力を一気に失い、米軍基地建設の労働者の賃金も建設機械もB券で支払われたため、生活にも支障がでてきた。

 

1950年に米ドルが使われるようになったが、B券が使われた約8年間で沖縄の製造業は壊滅状態に陥った。B券の使用が禁止になったのは1958年。

 

現在、日本全国での製造業の割合はGDP比20.8%、それに対して沖縄では4.8%に過ぎない。

B券の期間に製造業から手を引いた業者および県外に転出した例もあるだろう。

 

最近では、沖縄本土の空港をハブ空港(地域、この場合は台湾、中国南部、東南アジアとヤマトをつなぐ中心的拠点空港)にする案、USJユニバーサルスタジオジャパン)を沖縄に誘致する案などが私などにさえ聞こえてきたが、USJは正式に撤退を表明し、ハブ空港案はいつの間にか立ち消えとなった。

 

経過は分からないが、政府ともっと密接な関係があれば実現したのかもしれないという思惑が沖縄経済界にあったのかもしれない。

 

その政府は対米従属路線どころか、今年JCJ日本ジャーナリスト会議)で賞を貰ったスクープによれば、オバマ元大統領のプラハ演説を受けて核軍縮を計画した勢力に反対の意向を被爆国の日本政府(厳密には外務省高官)が提唱したとのことだ。

 

もちろん、外務省が政府の意向に逆らった発言をするとは考えられない。

 

沖縄が自然豊かな風土を生かして観光立県としてと同時に経済的にも発展するために、翁長さんの意志を引き継ぐ候補者、それも勝てる候補者を選びオール沖縄の精神を継続して欲しい。

 

そして、日本全体もアメリカからのくびきから解放される政府の樹立へと向かうことが、ウチナンチュにもヤマトンチュにも幸せなことだと再度確信する次第である。