麻原彰晃の死刑執行とドストエフスキー

麻原彰晃以下7人の死刑執行は近々あると予想されていたけれど、じわじわとなんとも言えない気持ちの悪さがこみ上げてくる。

袴田事件冤罪の上告が破棄され、高齢なので収監はしない、というなんとも奇妙な決定がされたのは、「近々行われるオウム真理教死刑囚の死刑執行の露払いだ。つまり、日本の警察、検察には誤謬はないとの確認だ」との見方が広がっていた。

滝本弁護士が「麻原彰晃の死刑執行で十分だ」とコメントし、またも「遺族の気持ちを考えないのか!」というコメントがあふれ返っている。

麻原彰晃以外の人物は「なぜ人倫を超える教義に魅せられたか」という精神構造を解明するためにも生きて辱めを味わい続けて欲しかった。

かつて、法務大臣で「私は仏教徒なので在任中は死刑執行の判は押さない」と発言し、物議を醸したことがあった。

死刑執行に関して思い出すのは、ドストエフスキーの経験だ。革命分子として捕らえられ、銃殺刑の判決が下り刑場に仲間とともに引き出された。
その時、ロシア皇帝の恩赦が下り解放された。これこそ、人の命を権力者が弄んだ好例ではないか?f:id:Iris0301:20180708073219j:plain
黄昏

この経験により、ドストエフスキーは敬虔なロシア正教会信者となり、「神のいない世界でわれわれはなにをよすがに生きてゆけば良いのか?」と考えるようになり、ソ連ではドストエフスキーの著書は反革命的として禁書扱いを受けた。

私は犯罪被害者の家族、友人、知人だったことはないので、犯人が死刑になって心が慰められるかどうか?分からない。

少なくとも、日本の刑法の無期懲役に刑期短縮により社会復帰の可能性があるが、終身刑を作って欲しい。